囈語 divagations

ひとりごとは、空気のなかに消えてしまって二度と取りもどせない

自己責任

新宿のあたりをあるいていたら、靖国通りの中央分離帯で、旅行者らしき外国人カップルが信号待ちをしていた。

靖国通りは幅がひろいので、歩行者が青信号でわたりきれなくて、中央分離帯にとりのこされてしまうことがよくある。道路のほうもそれを想定して、ちゃんと歩行者の信号待ち用のスペースがある。

その交差点では、おまわりさんが交通整理をしていた。それでなくても新宿なんて交通量がおおいから、信号無視をしてまで大通りをわたろうという歩行者はまずいないが、その、外国人のふたりづれは、赤信号でも、ちょっとくるまがとぎれると、すかさず道路にかけだそうとするそぶりをみせるのである。とうぜん、おまわりさんはあわててピーピーと笛を吹き、じっとしていなさい、というジェスチュアをする。外国人ははじめじぶんのことだとおもわずに、びっくりしてたちどまり、おたおたする。そしてまた、くるまのながれがとだえたところで道にでようとし、また笛を吹かれてきょろきょろしている。

ぼくはおもったのだが、外国人のあのふたりは、まさかじぶんたちが 「くるまがこないので道路をわたろうとした」 というりゆうで警官にちゅういされた、とは、夢にもおもっていないであろう。なにか、じぶんたちにはわからない、日本どくとくの、びみょうなルールがあって、日本人にはわかるけどぼくたちにはわからないよ。オー、こまったな、というようすなのである。

車がきていないのにもかかわらず、歩行者が赤信号をまもる、というのは、わりと日本特有の現象である。それは、欧米だって、ちいさな子供には、くるまがいなくても信号はまもろうね、としつけるだろうが、あるていどじぶんの判断ができるようなおとなは、もうじぶんの責任で、くるまがこないか確認して、赤信号でもわたることがおおい。パリで目撃したのだが、なにしろおまわりさんさえ、へいきでくるまがびゅんびゅんよこぎる道路を赤信号でもわたっていた。どうしてかといわれれば、おそらく、ふしぎそうに、だってわたれたじゃないか、と、こたえるだろう。

そのような、「とりあえずきまりだからまもる」 という日本人の態度と、「きまりがあろうともまもる理由がなければじぶんの判断でまもらないこともある」 という欧米人 (とくにフランス人) の態度と、それはよいとかわるいとかではなくてそれぞれのお国柄とか個々人の性格によるものであろうけれど、「くるまがぜんぜんいないのに赤信号をわたろうとしたらおまわりさんにおこられたでござる」 なんてことがあったら、おそらく欧米人は、真顔で 「なぜ?」 というとおもう。

このあいだ道路交通法だかが改正されて、うしろのシートでもシートベルト義務とか、雨の日に傘をさして自転車にのってはいけない、とか、自転車のふたりのりは禁止、ただし子育て中のお母さんは場合によっては免除、とか、なんだか異常にこまかくきまりがきめられているけれど、それはもちろん安全のためにはひつようなきまりばかりなのだろうし、ぼくもできるだけ、とくにこどものまえではまもろうとはおもうが、しかし、そんなきまりをつくって、まもらなければ罰金だからね! などというのは、なんだか、社会的に幼稚というか、貧しいなあ、というきがしてしまう。それがどれだけ危険なことかをきちんとしらしめたうえで、あとはおとなの判断にまかせる (警察がいちいち口をださない)、というのが成熟した社会ではないかとおもうのだが。

傘さし自転車が全面的に禁止になったら、東京とか都会はともかく、地方の中高生は雨の日に時間通りに通学するのが不可能になる。これは地方の高校に片道 45 分かけて自転車通学していたぼくがいうのだからまちがいない。せめてバスの本数をふやして料金を半額にするとか、高校生でも免許があれば自動車通学を許可するとか、手をうたないと、机上の空論になってしまう。

ぼくはいまでもちょっとした移動には自転車をつかうこともおおい。このあいだ雨がふりだしたので傘を買ってさしながらかえってさあ、というはなしを母親にしたら、えらく動揺して、アンタ知らないの、こんどからそれやっちゃいけなくなったんだよ、おまわりさんにつかまるよ、などと 30 歳の男をつかまえて心配するのである。あまり母親を心配させるのはぼくの本意ではないので、これからきをつけるよ、といっておいたが、じっさい街ではこのきまりはほとんどまもられておらず、有名無実なものとなっている。おまわりさんもいまのところ黙認しているみたいだった。だっていままでみんなそうしてきたのだからね。こうしてみんなが、積極的にではなくても無言の抵抗をすれば、そのうちきまりそのものがまたかわるかもしれない。きまりごとだからってなんでもかんでも反抗する態度も馬鹿らしいが、理不尽なきまりにはあえて従わないこともまた、国民の権利なはずである。
  1. 2008/06/25(水) 12:50:52|
  2. 雑感

DVDモニタをかった

いままで、10 年前に買った 14 インチのテレビをつかっていたのだが、いいかげんうつりがわるくなって、たまに黒白画面にかわってしまったりするようになったので、テレビ受像機の買い替えを検討していたのであった。余談だが、どんな映画でも、黒白画面だと、なぜかヌーヴェルヴァーグっぽくなる不思議。

さて、テレビといっても、ぼくは地上波のテレビ番組を見ないので、べつだん 「テレビ」 でなくてもよいのである。テレビ番組のチューナーがついていなくとも、DVDとケーブルテレビがうつればよい。それで、おおきめのパソコンのモニタをかって、そこにDVDやらの端子をいれてやればよいのではないかとおもったのだ。

しらべてみたら、いまのパソコンのモニタは、もともとそのような、DVDとかケーブルテレビとかビデオゲームとかの画面をうつすことにもつかわれることを想定してつくられているらしく、もう何種類もの入力端子がはじめからそなわっていて、なんのもんだいもなく、外部機器と接続できるらしいのであった。初代ファミリーコンピュータとかのあのむだに面倒くさい配線のころのことをおもうと、たいした進歩である。

ウェブでさがしたところ、なぜだかしらないが、モニタは、22 インチが価格の壁であるようであった。22 インチまでなら、テレビチューナーのついていないただのモニタなら、ワイド液晶画面のよいものでも、やすいのだと3万円前後でなんとかなる。23 インチ以上になると、とたんに値段がたかくなるのだ。でもぼくのへやの寸法からして、22 インチくらいがちょうどよい。それ以上だとでかすぎてぎゃくにみにくくなりそうだ。ぼくのともだちが、はじめてボーナスをもらったけどなににつかったらよいかわからなくて、つい、30 インチ以上もある大画面テレビを買ってしまったのだが、つけておくと、へやの壁ぜんたいが、いちめんのテレビ、いちめんのテレビ、いちめんのテレビ、みたいになってしまって、ひじょうにうっとうしいらしい。へたをするとにんげんが実物よりおおきくうつってしまったりするのだ。アダルトビデオなんてみても迫力ありすぎてなんにもおもしろくないぜ、と、そのともだちはいっていた。そんなものみるなよ。

そうして、めでたくワイド画面の液晶モニターがうちにとどきました。価格は3万円弱。DVDの画像出力端子とつないで、まずは 「スター・ウォーズ」 エピソード3である。スター・ウォーズのシリーズは、その時代の映像技術の最高レベルのサンプルとしてやくだつ。もんくなくきれいである。いままでは、壮大な宇宙戦争の映画でも、14 インチのちまちました世界で、ごめんなおれのとこせまくて、というかんじだったが、これならまずまんぞくである。まえのブラウン管テレビだと、たとえば 「2001 年宇宙の旅」 をみたときに、直方体であるはずのモノリスが、画面のすみのほうでぐにゃーっと曲がってしまったものだが、液晶画面ではそういうこともないだろう。音声はモニタとはべつにアンプの端子につなぐので、音のほうも迫力ばっちりである。ちなみに、同サイズのいわゆる 「テレビ受像機」 の相場は5〜6万円である。

こうなってくると、おきにいりの映画のDVDをまたかいあつめたくなりそうである。すでに、「ブレードランナー」 と、「バック・トゥ・ザ・フューチャー3部作」 のDVDを注文してしまった。あまり物欲に身をまかせるのもよくないとおもうが、なに、映画をみるのもぼくの営業品目のひとつなのだ。と、じぶんにいいわけをする。
  1. 2008/06/22(日) 15:11:36|
  2. メカ・WEB

大声出せ! タマ落としたか!

Hartman

声がひくくて滑舌がわるいから、しょっちゅうききかえされたりききまちがえられたりする。だからぼくはあるときから、必要いじょうに声がおおきくなってしまった。ただでさえおおきいのだから、ましてや、ひとまえにでてなにか話すときなど (そういうことがしごとでよくあるのである) は、テンションがたかまっていることもあって、さいしょはふつうの声ではなしはじめても、どちらかというとおしゃべりなほうなので、興がのってくると、だんだん腹式呼吸発声法みたいになってきて、朗々と声をはりあげてしまうことがある。あれはじつはきもちがよいのである。

ちいさなこえでぼそぼそとしゃべっても、ききとってもらえないことがおおくて、こどものころから、くろうしたのである。だから、ふつうに会話しているときでも、はなしがもりあがってくるとだんだん声がおおきくなっていって、図書館などで注意されたこともある。じぶんではきをつけているつもりなのだが、もう、ひそひそ声で会話ができないのでしかたがないのである。

ぼくみたいに声がでかくなるほうに進化すれば、まあばあいによっては、たしょう傍迷惑なこともあるが、コミュニケーションはとりあえず成立するだろう。でもどうしても声がちいさいひとはいるので、そういうひとは、ちいさいころから何かいうたびになんども聞きかえされてしまって、萎縮してしまうそうなのである。それで無口に、性格もネガティヴになってしまうひとというのはいるらしい。だから、こどもとか、いっしょうけんめいはなしているとき、よくいっていることが聞こえなくても、あいてにきまりわるいおもいをさせないように、きをつけないといけない。あなたのはなしには興味があるんですよ、ということをアピールしてあげるのだ。これはやっぱりなんどもなんどもひとからききかえされていやなおもいをしたぼくがいうのだからほんとうだ。

でもさ、もともと声がちいさいのならしょうがないけど、ともだちとかとむだ話をしているときは割れ鐘を打つごとき胴間声をはりあげているくせに、あいさつするときとか、じぶんの意見をあらためてきかれたときとかにかぎって、きゅうになにをいっているのかわからなくなるひとって、いるよね。さっきまで、がははは、なんて馬鹿笑いをしていたくせに、ひとにぶつかったときには、「すーぁせ……」 なんて隙間風みたいな声しかださないやつがいて (すみません、といっているつもりなのだろう)、あいさつはおおきなこえではっきりという、って、幼稚園で習わなかったのか! と、みみもとでさけんでやりたいきもちになる。あいさつひとつまんぞくにできないやからは、ハートマン軍曹に根性をたたきなおしてもらったらいいのだ。

ぼくは、じぶんのことばで語れるひとがすきです。
  1. 2008/06/16(月) 12:52:15|
  2. 雑感

5年ぶり闘牌記

妹が、マージャンをおぼえたいのでいっしょに打って、というので、先日、妹 (超入門者) と、そのともだちふたり (ベテラン1名、初心者1名) とともに、街のマージャン荘で、卓を囲んだ。

ぼくは二十歳くらいのときには大学の仲間ととにかくマージャンばっかりやっていて、文字どおり 「はまって」 いたのであった。誇張なしに、当時の時間のつかいかた配分を円グラフにしたら、マージャンがいちばん多くをしめていたのではないかとおもう。すくなくとも、かくじつに 「睡眠」 よりはマージャンやってるほうがながかったとおもう。週に3回徹夜マージャンしたりしていたもの。

でも、大学を卒業してからは、なにしろまわりの仲間がみんなはたらきはじめたりして、マージャンやるあいてがいなくなってしまったので、そこできっぱりと、やらなくなってしまった。たまにひさしぶりに旧友にあったときに、ちょっとあそびでやるくらいであった。今回ジャン荘にいったのも、じつに5年ぶりくらいである。ひじょうになつかしいかんじがした。いってみておもったのだが、当時よりも、マージャンやってる学生がすくなくなっているとおもう。そのころは、週末の夜なんて順番まちになるくらいたくさんお客がいたものだが。

マージャンのあそびかたは、サイコロをふったときの配牌をとる場所をいっしゅんとまどったりとか、ピンフをつもったときやチートイツのときの点数計算をおもいだすのに若干じかんがかかったりとかしたけれど、だいたいおぼえていた。というか、いまだにからだがおぼえていてしぜんにうごいてしまうのであった。そういうよけいな能力を、もっとべつのところにいかせばよいのに、とおもう。

さいしょのゲームは、アカギか哭きの竜か、というくらいの、もうしわけなくなるくらい、ぼくの馬鹿づきなのであった。ぼくが起家で、そのまま8連荘してしまった (マージャンのルールをしらないひとにはごめんなさい)。「8連荘役満」 なんてばかなルールはないが、それでもぼくの圧勝であった。おかねをかけたりしないただの遊びだから、べつにそんなに勝ってもしょうがないのだが、なにしろほうっておいてもかってにあがってしまうのである。しまいに、東1局のまま、妹がハコになって、その半荘がおわってしまった。5年分のつきがこんなところででたのか。できればもっと真剣勝負のときにでてほしいとおもう。みんな、ごめんね。

そのあと、もう半荘やって、こんどは妹のともだちのベテラン氏がじゅんちょうに勝ちをおさめ、ぼくは原点キープくらいで、妹がまただいぶ負けて、つつがなく、ひさしぶりのマージャンあそびはおわった。たのしかったのでまたさそってください。

と、それはよいのだが、たばこをやめてからジャン荘にいってみたら、あそこはまわりのよそのひとがみんなひっきりなしにたばこをすうから、やっぱりそうとうヤニくさいですね。学生のときは、じぶんもすっていたからきにならなかったのだが、徹マンあけでよれよれのたばこくさいままに大学の授業をうけにいったりしていたのだから、まわりのひとにはずいぶんご迷惑だっただろうとおもう。よくもそんなにんげんばなれしたおこないをしていたものである。じぶんがすわなくなってはじめてきがつくのである。すみません。うちにかえってきて、背広とズボンを一晩ほしても、まだたばこくさい。こんどやるときは、マージャン牌をかってうちでやるべきであろうか、禁煙のジャン荘をさがすべきであろうか。
  1. 2008/06/08(日) 10:28:54|
  2. 雑感

ユーザビリティ

先日、喫茶店でしごとをしていたところ、となりのテーブルの中年男性が、あの、携帯端末というのでしょうか、ウェブブラウジングだのメールだのできる機械をかたかたいじりはじめたのだが、どういう理由かしらないけど、ボタンをおしたときのぴっぴっぴっという音を消していないので、ひじょうに耳ざわりなのであった。しかもその男性は、その機械を買ったばかりなのか、へんにうれしそうで、ひっきりなしに誰かにメールしてはあたらしいメールを受信して、こんどはなんかソフトをたちあげて、と、とにかくいそがしく機械を操作しているのであった。そのたびに、「ちゃらーん。ユーヴガッタメール!」 だの、「シャキーン! ビューン!」 だの、よけいな効果音がでてうるさいのであった。

そこが図書館とかだったら立っていって注意しただろうが、まあ喫茶店なのでがまんしていた。それにしても、電車のなかとか図書館とかでも、携帯電話や電子辞書の、あのボタン操作音をオフにしていないひとというのは、ときどきいるものだが、どういうつもりなのだろうか。そもそも、あのボタン操作音というのはなにか意味があるのだろうか。目の不自由なひとのため? 指先に障害があるひとのため? いろいろ考えるが、どうもいまひとつぴんとこない。というかあれっていらない機能なのではないか。

しかも、機種によっては、買ったときに、もともと操作音オンになっていることがあって、きっとメカによわいおじさんやおばさんは、じぶんでも気になりながらもめんどうくさくて放置しているのかもしれない。ぼくなんて操作音はもちろん、着信音も、電話やメールがくるたびに音なんかなったらいちいちびっくりしておちつかないので、ぜんぶ音を切って、弱いバイブだけにしている。でもそうするためには、ドストエフスキーの小説くらいありそうな、長大な取扱い説明書を熟読してその機能をみつけださなければならないので、そこまでするくらいなら音くらいなってもいいもんね、と、ひらきなおっているお年寄りもいるかもしれない。

DVDでも、ディスクをプレイヤにいれると、映画がはじまるまえの前振りがへんに凝っていて、はじめのメニュー画面で音声や字幕をきりかえたり、場面をえらぼうとするたびに、ぐいーん、しゃかしゃかしゃか、がしゃん! なんて効果音がでて、映画のキャラクタがちょろちょろうごいたりするのがあるが、はっきりいってめざわりなんだ。いいからさっさと始めてくれよ。とおもうことがある。字幕や音声を切り替えようとメニュー画面にもどるたびに (さいきんの外国映画のDVDは、なぜかはじめの状態が日本語ふきかえになっていることがおおくて、字幕派のぼくはいちいち切り替えなければならない。それはそれでいいのだが、切り替えに手間がかかるのはこまる)、その映画のハイライトシーンみたいのがぐるぐるでてきてそのあいだ操作できなかったりする。とくにひどいのが 「スター・ウォーズ」 シリーズのDVDだが、ほかにもさいきんの大作映画になればなるほど、しかけがおおげさになっているみたいだ。

マイクロソフトの 「Word」 でも、ソフトをさいしょにたちあげると、たのんでもいないのに、「ヘルプ」 のいるかがでてきて、「何を調べますか?」 などときいてくる。ひじょうに邪魔なのである。「何を調べますか?」 という質問のこたえでもっともおおいのが、「おまえを消す方法」 らしいというジョークをきいたことがあるが、むべなるかな、である。

それらの理由は、いろいろあるのだろうが、まず、機械やプレイヤやソフトフェアをつくっているひとが、どうせつくるのだからと、じぶんのもてる技術をすべてそこに投入してしまって、あってもなくてもどっちでもよい機能ばかりになってしまった、ということがあるかもしれない。そして、せっかくつくったのだから、お客さんにもその機能をくまなくしってもらおう! と、お客さんがじぶんの意志でオフにしないかぎり、すべての機能がさいしょからオンになってしまっているのかもしれない。

しかし、もうひとつ、重要な理由があるとおもうのだ。それは、お客さんのほうが、機械がちょっとじぶんにわからない状態になったりおもいどおりにうごかなくなったりすると、説明書などろくすっぽ読まないで、すぐにメーカーやおみせに質問 (というかほとんどクレーム) をしているからではないか、ということである。音を鳴らしたいのに鳴らしかたがわからない、とか、いきなりひらがながローマ字になってしまった、とか、まえとちがった画面になってしまった、とか、そんなの説明書にかいてありますよ、あるいはもうすこしでいいからじぶんでかんがえてくださいよ、ということをいちいちまめに電話してきたりするひとはいるものらしい。そういうひとの第一声は、かならず、「わたしはなにもしていないんだけど」 である。

そこで、メーカーのひともいちいち応対するのがいいかげんめんどうになって、もういいや、はじめからぜんぶ機能をオンにしてやれ、はじめにかならずヘルプがひらくようにしてやれ、これで文句あるか! みたいなことになったのかもしれない。だとしたらおたがいに不幸なことである。メカにがてな中高年のみなさん、みなさんもいまでは電子レンジとかファックス付き電話とかつかいこなしているでしょう。自動車だって運転しているでしょう。はじめは、そんなむずかしそうなこと、わたしにはとても、とおもったかもしれないが、でもやればなんとかなるものでしょう。パソコンや携帯電話も、もうすこし、説明書をちゃんとよんであげましょうよ。
  1. 2008/06/05(木) 21:33:23|
  2. メカ・WEB

「ミスト」 をみた



「死亡フラグ」 ということばがある。もとはコンピュータ・ゲームの用語だったらしいが、いまではふつうに日常会話につかうひともいる。「作中ある行動がでてくると、その行動をとった人物はあとで死ぬ」 という目印である。フラグとはつまりフラッグで、目印の旗のことである。

具体的にいえば、ありがちなのが、「このなかに犯人がいるかもしれないのに、おまえらなんかと一緒にいられるか! おれはひとりでいさせてもらうぞ!」 とか、「この戦いに勝ったら、うちに帰って子供に会うんだ!」 とかである。日常生活だと、「大掃除の最中に中学校の卒業アルバムを発見」 とか、「徹夜の試験勉強中にインターネットをひらく」 などがある。

今回みた 「ミスト」 は、全篇これ死亡フラグだけでなりたっているようなお話であった。ある日とつぜん、町全体が濃い霧に覆われてしまう。霧のなかには凶暴な 「何か」 がいるらしくて、主人公たちがたまたま入っていたスーパーマーケットに、血だらけのひとが命からがら逃げこんでくるのである。

さあ、スーパーに閉じこめられたひとたちがみせる、あの手この手の死亡フラグを堪能していただきたい。「ファイナル・デスティネーション」 という映画では、ありふれたものが原因でつぎつぎとひとが死ぬので、つぎはどんな災難がまちうけているのか予想がつかないところがおもしろかったが、「ミスト」 はむしろ、古今東西のべたべたの死亡フラグの見本市である。21 世紀になってまで、「怪物なんかいるもんか! おれが様子をみてきてやるぜ!」 なんて古典的な死亡フラグをみられるとはおもわなかった。パニック映画ずきにはたいへんおすすめです。

みていて、なにかに雰囲気がにているなあ、とおもったのだが、これは実写版、大人版、「漂流教室」 である。あのこどもたちにくらべると、この映画のおとなたちのほうがはるかに馬鹿なのだが。「いつもおっさんおっさんとバカにしやがって !!」 の関谷氏こそ出てこないが、そのかわりに、これもアメリカのパニック映画のおきまりである 「これは神の怒りよ! 世界の終わりなのよ!」 などと叫ぶファナティックおばさんはばっちりでてくる。しかもこれがまた典型的に、ひじょうにむかつくおばさんなのである。

そうやってあまりに観客の予想どおりにすすんでゆくこの映画だが、しかし、さいごのさいごで、ひじょうにおそろしいかたちで観客の裏をかくのである。これはみごとなミス・ディレクションであった。ただし、けっこう衝撃的な展開になるので、あそびはんぶんのきもちでみにいくと、けっこう落ちこむかもしれない。注意。

スティーヴン・キング原作の映画としては、かなり傑作であるとおもいます。怖いよ。
  1. 2008/06/03(火) 15:40:41|
  2. 映画

かいているひと

eiju

eiju

いままでかいたこと

話題

ことばをさがす

RSSフィード

おたより


address