きょうの東京はすごい風であった。暴風といってもいいくらいのものだった。ベランダから下をみたら、どこかからとばされてきた洗濯物がたくさんおちていたのでわらってしまった。
それでもへやのなかにずっといられればよかったのだけれど、よんどころない用事で外出をしなければならなかった。とめてある自転車がのきなみたおれていた。階段をのぼるときに突風で足をすくわれそうになった。なんだか山の稜線をあるいているみたいだ。
そうして、なにがたいへんかって、風よりも、それでまきあがる砂嵐である。きょうは天気がよかったのでよけいに顕著だったのだけれど、もう空のはんぶんくらいが黄色くかすんでしまうほどであった。誇張ではない。よその地域ではどうだかしらないけど、ほんとうに空が黄色いのだ。つよい風がつねにふきつけてくるので、目に砂がはいってまともに開けていられない。
砂ぼこりが風でまいあがっているのだろうけど、じつは、黄砂といって、中国とか大陸の砂漠の砂も、はるばる海をこえて日本上空をおおっているらしい。じっさい春先など、中国の都会ではマスクをしなければ外にも出られないし、洗濯物も外に干しておくと真っ黒になってしまうという。
そうしてぼくもかえってきてから干しておいた洗濯物をとりこんだのだが、やっぱり、はたくともうもうとすごいほこりがたった。なんだか全身がざらざらするみたいできもちわるい。外からかえってきてほうっておくとからだにわるいので、うがいはちゃんとしたほうがよいらしいですよ。ぼくはついでに水道で目のなかも洗った。
いま、ようやく風はおさまっているみたいだけれど、なかなかあんしんして窓をあけたりふとんを干したりできないのがきがかりである。
- 2008/02/24(日) 22:20:36|
- 雑感
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よく学校の授業で教師が 「ここはだいじだから教科書に線をひいとけよ」 なんていうことがありますが、ぼくは教科書に線をひくのがすきではない。
線をひくのは、そこは見おとしがちだからあとからみたときに目立つように、ということだろう。でも、どこを見おとしがちか、どこをしっかりおぼえておかなければいけないとおもうか、そんなの、ひとそれぞれなはずでしょう。だいいち、教科書というのはその学科の基本なのだから、だいじといえばぜんぶだいじなはずである。そもそも、ほんとにだいじなところはゴチック体かなにかで強調してあるはずだ。
勉強とか授業でたいせつなのは、先生に 「線をひいておけ」 といわれたところにいそいそと赤鉛筆をひっぱることではなくて、教科書にかいてあるたくさんの情報のなかで、どれがより重要なのか、どこはもうすでに知っていることでどこからは未知の内容なのか、ということを、じぶんでみわける力をつけることでしょう。
さらにしんぱいなのは、授業で先生にいわれたところに線をひく、という行為にばかり集中してしまって、線をひいたはいいが、かんじんの内容をさっぱりおぼえていない、ということがあるのではないか、ということだ。ぼくが学生のときにも、赤とか黄色の蛍光ペンでどのページもあちこち色とりどりにしているひとがいた。なかにはかいてあることほとんどに線をひいてしまって、もはやどこがだいじなのかさっぱりわからなくなってしまったり。そういうひとにかぎって、定規とかを駆使してすごく精密に、寸分のくるいもなく美しい線をひく技術をもっているものだが、その内容はというと、じつはそんなに理解していなかったりする。たまに線ひきにしっぱいしてまがってしまったりすると、それで落ちこんでしまったりする。阿呆か。
とりあえず、線なんかひいてないまっさらな教科書を、10回読んでみることである。それでだいじだとおもったところにだけうすく鉛筆でしるしをつけておけばよいのである。
あと、すごくこまるのは、じぶんの本だけではなくて、図書館の本にまで線をひくやつである。線をひいたところはページのなかでそこだけ目立つので (そのためにアンダーラインをひくわけだが)、はじめて読む本なのに、ついそこに注意がいってしまうのである。なんでぼくが知らない誰かの注意にしたがわなければならないのか、とおもう。テレビ番組で、出演者がなにか冗談をいうはしからやたらに下にテロップがでるのがうっとうしいな、とおもうのとおなじ感覚かもしれない。
中学校のときに、抜き打ちで、教科書を教師にみせて、ちゃんと授業でいったところに線をひいているかどうかの検査があった。ぼくはぜんぜんまもっていなかったので説教された。教科書なんかどう読もうがぼくの勝手ではないか。ほんとうに嫌だった。
- 2008/02/21(木) 12:16:47|
- 雑感
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ともだちのウェブログで
「たなぞう」 というサイトがあるのをしった。どうやら、じぶんの蔵書をウェブ上にリストアップして、感想などをつけて公開できるというものらしい。アマゾンとかBK1などのネット書店とも連携していてかんたんにリンクもできるのだろう。べんりかもしれない。しれないが、ぼくはへんなところで凝り性なので、これをやりはじめたら部屋にある本を一冊のこらずアップしなければきがすまなくなりそうで、そうするとほかのことになにも手がつかなくなるので、いまのところはやらない。
でも、じぶんの買った本を記録しておくという習慣がないので、じぶんのもっている本はだいたいおぼえているつもりだけれど、たまに、図書館やともだちからかりて読んだのだったか、じぶんで買ったのだかわすれてしまうことがある。それに、その本を読んだことがあったかなかったかすら、記憶があいまいなこともある。
そうすると、さいあくのばあい、おなじ本を二回買ってしまう、ということも、ときどき、ある。とくに古本屋などでてあたりしだいに安売りの本をまとめ買いするときなどに、よくやる。かえってきてからたのしく本をひらいたら、これ前に読んだじゃん! しかもおれ持ってるじゃん! というときのがっかり感は尋常ではない。たとえばうちには 「泥棒日記」 と 「幼年期の終わり」と 「高野聖」 がそれぞれ2冊づつある。「デイヴィッド・コパフィールド」 なんて全巻揃いで2セットある。
また、たとえば高校生のときに実家でよんだものを、東京にきてからまた衝動的によみたくなったりして、あえておなじのを買ってしまうこともある。実家と東京の部屋にそれぞれ 「完全自殺マニュアル」 があったりする。これはじゅんすいに学術的な好奇心 (というかなんというか) で買ったものなので、親がしんぱいしないとよいが。「ノルウェイの森」 なんて、ブックオフとかで1冊100円くらいで投売りされているから、わざわざうちにかえって探すよりも買ってしまったほうがてっとりばやかったりして、実家の本棚にあるのもふくめれば上下巻4セットくらい買っているのではないかとおもう。
ぼくの部屋でなにがいちばん体積を占めているかといえば、まちがいなく本である。本棚と本棚のあいだにふとんをしいて、ちいさくなって眠るくらいである。これはもう、本好きの呪いみたいなもので、観念するしかないのだが、これでも必要ない本は売ったり実家に送ったりして厳選しているはずなのに、それでもすごい威圧感である。これぜんぶなくなったら、部屋ひろくなるだろうなあ、と、たまにおもう。
ひとによっては読んだはしからぜんぶ売り払ってしまったりして手元にはほとんど本をおかない、というひともいる。森博嗣さんなんかそうらしいけど、やっぱり、ふとしたときにぱらぱらめくりたい本というのはあって、そんな機会は1年にいちどあるかないかだけれど、ちかくにあるとなんだか安心、というへんなおもいこみがある。ぼくのばあい仕事でつかう本というのもけっこうあるし。
パソコンの画面上で本を読めるという、いわゆる電子出版などのサーヴィスもだんだんさかんになってはいるけれど、やはり、せめて初読の本は、紙の 「本」 で読みたいな、というきもちはある。パソコンだとふとんでねっころがって読めないし。
そこで夢想するのである。いまの出版社は、たぶん、本の原版はほとんどぜんぶPDFみたいなデータにして保存しているのではないかとおもうので、新品の本には、なかみをぜんぶPDFファイル化したデータをいれたメモリカードみたいなのをおまけで (なんなら追加料金でもよい) 付録にしてくれないかな。そうしたら、いちど読みおわったらそのデータだけ保存して、現物の本は売ったりとかどこかよそに保管したりとかできて、本をおくスペースをおおはばに節約できるのだが。
でもむりだろうなあ、そんなことしたらぜったいそのデータをネット上にただで流されて、出版社の収入がなくなってしまうもの。かといってじぶんで部屋にある本をぜんぶスキャンするのも不可能だし。映画で、英国の大金持ちの家によくでてくるような、じぶんの書庫がほしいなあ。さらにできれば、そこに専属の司書もおきたい。それはきっと、タキシードを着たおじいさんで、本のことならなんでもしってるプロなのだ。
- 2008/02/08(金) 14:56:28|
- 本
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まいにちまいにち、あきもせずに迷惑メールがとどく。だいたい一晩に100通くらいである。メールアドレスをかえてしまえばおさまるとおもうのだが、いかんせんしごとでつかっているアドレスは、諸事情でおいそれとかえられないのである。
メールフィルタをつかっているので、ほとんどはざっと差出人とアドレスだけみて全削除してしまえばよく、その手間は10秒もかからないのだが、数日メールボックスをひらかないときなどにはもう数百件という迷惑メールがとどいていて、万一だいじなメールがまじっていないかとおもうと、やはりちょっと神経をつかう。
おくるほうもたいした根気だなあ、と、やや感心してしまいそうになるが、よくかんがえればそんなもの、自動メール送信ソフトが、ネット上から収集したアドレスにみさかいなくおくっているにきまっている。
なかには、そのスパムメールをしかけた当の本人はとっくに足をあらっているのに、とりのこされたソフトだけが、きょうも黙々とアドレスをさがしまわり、メールをおくりつづけている、ということもあるだろう。なんだか、セイバーヘーゲンの
「バーサーカー」 みたいである。もしかりに、いま核戦争かなにかでとつぜん人類が絶滅しても、スパムメールはなにごともなかったかのようにまいにち全世界に送信されつづけるだろう。だれもみるもののなくなったメールサーバには、送り主のいないスパムメールだけが、しんしんとたまりつづけることになるのだろう。そうかんがえるとなんだかSF的にものがなしくもうつくしい光景のようにもおもえるが、やはり迷惑なものは迷惑である。作成者はよっぱらってパソコンにビールでもこぼすがよいとおもう。キーボードのすみずみまで泡だらけになればよいとおもう。
さて、はじめてみたときにはおどろいてしまったのだが、たまに、ぼく自身のアドレスから、迷惑メールがとどくのである。もちろん、ぼくはそんなもの送らないし、パソコンをあらいざらいウィルス・チェックしても、なにもみつからない。これは、迷惑メール自動送信ソフトが、送り主のアドレスを偽装して、ぼくになりすましているのだ。
だから、ぼくのアドレスをごぞんじのかたのところに、もしぼくのアドレスからへんなメールがとどいても、それはぼくのせいじゃないですよ。すべてそんなたちのわるいプログラムをかいた作成者がわるいのだ。作成者の家が洪水で水没すればよいのにとおもう。ふとんとパジャマがずぶぬれになればよいとおもう。
この偽装するアドレスは、ウィルスが他人のハードディスクにしのびこんで、メールソフトに登録されたメールアドレスのリストから収集していることも多い。だから、ウィルス駆除ソフトをパソコンにいれていないと、本人にわるぎがなくても、いつのまにか侵入したウィルスのせいでひとに迷惑をかけてしまうこともあります。もし駆除ソフトをいれていないひとがいたら、無料でてにはいるもの(
「avast!」 など) もありますから、いますぐにいれるように。やくそくだよ。
- 2008/02/01(金) 12:44:15|
- メカ・WEB
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