よく、映画やなにかで、マッド・サイエンティストが、「わたしはとんでもないものを造ってしまった……!」 などと絶叫することがある。たいがいそのあと科学者は自分のつくったものに殺されるものである。いわゆる死亡フラグである。このてのはなしの原型は、たぶん旧約聖書とかそのくらいふるいころからあっただろうとおもうけれど、近代的にわれわれがおもいつくのはたとえば 「フランケンシュタイン」 などであろう。フランケンシュタインというのは、たまにかんちがいをしているひとがいるけど、あのつぎはぎの大男のことではなくて、それをつくった科学者のなまえですよ。つぎはぎの怪物には、さいごまでなまえがないのである。せつない。
ところで、芸術家とか文学家とか、じぶんでも意識しないうちに、どうかんがえてもじぶんの想像力とか実力の限界をこえてしまったものを、なにかのひょうしに創造してしまうことがあるのではないかとおもう。
よい例が、ジョナサン・デミ監督の 「羊たちの沈黙」 に登場するハンニバル・レクター博士であろう。想像するのだが、おそらく、ジョナサン・デミも、原作者のトマス・ハリスも、演じたアンソニー・ホプキンスも、あの映画をつくりながら、じっさいに映画として完成するまで、ハンニバル・レクターというひとをほんとうには知らなかったのではないか、と、おもうのである。
いやもちろん、それぞれ原作の小説にえがいたレクター、脚本に登場するレクター、自分が演じているレクターを、それぞれじぶんなりに解釈してはいただろう。しかし、それらが、おそらくじぶんのあずかりしらぬところで、まるで 「ザ・フライ」 で博士が物質転送機で遺伝子レベルまでハエと融合してしまったように、それぞれのおもわくが奇跡的に複合してフィルムにたちあらわれた、あの、ハンニバル・レクターは、もはや、原作者のものでもなく、脚本家のものでもなく、監督のものでもなく、カメラマンのものでもなく、俳優のものでもなく、じっさいに、映画の中に 「実在」 しているのだ。
あの、ジョディ・フォスター演じるクラリス・スターリングが、おそらく手とかぶるぶるふるえるくらいの緊張をいだきながら、おもくるしい地下監獄の廊下をゆっくりあるいていったつきあたりのガラス張りの檻のなかで、あたかも周囲の重力すら支配しているかのような絶望的な威圧感をただよわせて頬笑んでいた、あのレクター博士は、演出とか演技とか、そういう理性的な計算や予測を、あの一瞬で、かるがると超えてみせた。
あの映画の関係者は、もしかしたら、完成した映画を試写室かどこかでみて、われしらず、「おれたちはとんでもないものを造ってしまった……」 と戦慄したかもしれない。にんげんは、ときどきそういうことをしてしまう。学問とか芸術とか、およそ一見やくにもたたないようなことに、ある種のにんげんがうつつをぬかす理由は、そういうところにあるのではないかとおもう。
- 2008/01/30(水) 10:31:16|
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さいきん味噌汁がうまい。
というかもちろん味噌汁はむかしからうまいのだけれど、ぼくはひとりぐらしをはじめてからこのかた、カレーライスはよくつくるけれど、じぶんで味噌汁というものをつくったことがなかった。せいぜいチューブ入りのインスタント味噌汁くらいである。
なぜかというと、ぼくはあまりうちで和食をたべないからである。汁ものは、どうせつくるならいちどにたくさんつくったほうがかんたんだしおいしくなるものだが、そうするといつまでもずっと鍋のなかに味噌汁がのこりつづけてしまうということになる。それなら毎回インスタントのでいいや、とおもっていたのだ。
それに、それまでぼくの認識していた味噌汁というものは、つくるのにわりと手間がかかるわりに具がすくない、不満、ということがあった。これはぼくの育った家庭がそうだったということでよそはどうなのかしらないけれど、味噌汁というとせいぜい、わかめと豆腐だけ、とか、白菜と油揚げだけ、とか、シンプルなものがおおかったのである。それはそれでおいしいけれど、毎食じぶんでつくるほどでもないなあ、とおもっていた。
ところが、さいきん寒いのである。東京はもう、なんの冗談かというくらいにさむい。あたたかい汁ものが恋しくなる。それで、ひるめしに定食屋であったかい豚汁やけんちん汁をいただいて、やはり和食はよいものだ、とひとりごちていたのだったが、そうだ、これをじぶんでつくればよいではないか、と、あるとききづいたのでした。
うまれてはじめて、プラスティックの箱にはいった味噌をかった。そうして味噌汁の実をなににしようかかんがえたのだが、もう、ぼくがつくってぼくがたべるのだから、なにをいれようがじゆうである。じゃがいもとにんじんと玉ねぎとれんこんとしめじとごぼうと糸こんにゃくと豆腐と鶏肉、およそ汁ものの具としてぼくのすきなものをぜんぶいれて煮込んだ。おもえば、ぼくは白菜がきらいなのである。そしてぼくの実家の味噌汁にはよく白菜がはいっている。そんなところも、ぼくの味噌汁ばなれに拍車をかけていたのかもしれない。
寸胴の鍋いっぱいにつくった味噌汁 (というか、すでにけんちん汁とかべつの料理なのかもしれないが) からは、もくもくとたのもしい湯気がたちのぼっている。白いご飯をたいて、ゆったりと幸福な食事のひとときである。これでもかと辛いカレーライスももりもりくうのもいいけど、やはりなぜか味噌汁にはどくとくの安心感みたいなものがある。柔よく剛を制す、といおうか、これはぼくの味覚がすこしおとなになったということだろうか。
- 2008/01/25(金) 13:02:16|
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まいとし正月になると、こどもとか年寄りが餅をのどにつまらせて救急車ではこばれた、とか、新聞などで話題になっているけれど、そんなきけんがあるとわかっていながら、どうしてみんな正月になると餅をたべようとするのだろう。
だってお餅おいしいじゃん! というひともいるだろうけれど、あれってそんなにおいしいものだろうか。ぼくにとっては、いつもどおりの白いご飯のほうがはるかにおいしい。餅なんて、まあ出されたらたべるけど、そんなに積極的にじぶんで買って焼いてたべたい、というほどのものではない。味つけだってきな粉とか醤油とか、わりと地味なものばかりだし、だいいちたべているとのどにつまるので、はっきりいってお雑煮などは餅がはいっていないほうがすきである (甘いものはそれほどすきではないので、お汁粉とかおはぎなども、じぶんからたべるということはない)。
だから、そんなぼくからみると、みんなじつはそんなにすきではないものを、「お正月だから」 という理由で、なかば義務感でたべているようにおもえてしまうのである。いやそんなことないよ、わたしは本心からお餅がすきなんだよ! というひとも、もしかしたらいるかもしれないけど、だったら、そもそも餅は保存食なのだから、べつに正月にかぎらず一年じゅうたべていればよさそうなものである。でも餅を主食にしているひとというのは、ぼくはきいたことがない。
ぼくは元日だろうがクリスマスだろうが、なにかの日付にとくべつな感情はもたないので、それはたとえば 「勤労感謝の日」 とか 「海の日」 とかに、「ああ今日は祝日か」 以上の感情をいだかないのとおなじである。それをいったら 「春分の日」 とか 「夏至」 とかのほうが、「おお、地球は今年も公転しているなあ」 と、まだいくばくかの感慨がわく。
それとおなじで、この季節にはこれをたべよう、みたいな 「イベント食」 にも、きょうみがない。それは魚とか野菜は、旬のものをたべるのがおいしいのだろうけど、だからといって 「この日にはこれを是が非でもたべねば!」 というのは不自然なようにおもえる。だって必然性がないもの。
だいたいそういうのって、食品会社とか広告のひとがてきとうにでっちあげたキャンペーンにすぎないことがおおいので、たとえば土用の丑の日にはうなぎをたべる、という習慣だって、江戸時代に平賀源内がうなぎ業者からたのまれててきとうにいいだしたにすぎないらしい。うなぎは好物だけれど、夏場のあの時期になるとスーパーとか定食屋がいっせいに 「土用だもの、当然、うなぎ食べるよね?」 みたいなおしつけがましい雰囲気になってしまうので、そうなるとぎゃくに、だれがたべるか、とへそをまげてしまう。
あと、お赤飯というのもべつにうまいものだとはおもわない。こどものころのお祭りの日など、ぼくだけカップラーメンでいいよ、なんていうと、しらけたかおで、すなおじゃないわねえ、みたいにいわれたものだ。どちらかというとすごくすなおな発言だったのだけれど。
たぶん、ものを食う、という、いちばん個人的で根源的なことについて、他人からなにか指図されるみたいで、気にいらないのだろう。なにをたべるかくらい、できたらじぶんできめたいですよ。
- 2008/01/11(金) 18:14:17|
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このあいだの暮れに
「アイ・アム・レジェンド」 をみたのですよ。ウィル・スミスがでてる。監督は 「コンスタンティン」 を撮ったフランシス・ローレンス。
まえに劇場の予告篇でみたときにはひさしぶりになかなかおもしろそうな映画だのうとおもったのだが、しらべてみたら、これはヴィンセント・プライス主演の
「地球最後の男」 のリメイクなのであった。こちらは英語の題名も The Last Man on Earth である。まえにビデオでみたことがある。このふるい映画の 「歩く死体」 のイメージが、のちにジョージ・A・ロメロの 「リビングデッド」 シリーズのゾンビにうけつがれていった、というのがホラー映画ずきのあいだでは常識となっている。
そして、これらの原作の小説をかいたのが、リチャード・マシスンなのであった。これはしらなかった。リチャード・マシスンはアメリカのテレビドラマ 「トワイライトゾーン」 のメイン脚本家である。ほかの映画化された小説に、スピルバーグの出世作となった 「激突!」 や、ケヴィン・ベーコンが主演している 「エコーズ」(小説の題名は 「渦まく谺」) がある。
さらにさらに、この原作の小説 I am Legend は、いまはハヤカワ文庫からべつのひとが訳したのがでているが、かつておなじ小説を
田中小実昌が訳していたのだった。しらなかったしらなかった。ながいこと絶版になっているので、古本だとけっこうプレミアがついているらしい。東京都の図書館にもほとんど所蔵がない状態である。ネットの古本屋をあちこちさがしまわって、いちばんやすかった文庫本を 1500円で注文した。映画をみたあとに読んだ。まあ、これはぼくが田中小実昌さんのファンだからわざわざ高い古本をかったけれど、いま本屋でうられている尾之上浩司さんの訳でもべつにもんだいないとおもう。
さて、最新作の映画 「アイ・アム・レジェンド」 なのですが、さいごが原作とおおはばにかえられてしまっているのである。もともとリチャード・マシスンって、さいごにがらっとどんでん返しがあって、それまでの常識や価値観がくつがえされてしまう、というようなはなしをよく書く。ナイト・シャマランの元祖のようなおじさんである。この 「アイ・アム・レジェンド」 も、じつはそういうおはなしなので、「おれは伝説なのだ」 という、この 「伝説」 のいみがさいごのさいごでいままでおもっていたのとはぜんぜんちがういみにかわってしまう、というすぐれたSFであった。ふるいほうの映画ではそのてんは原作に忠実であった。
そのことについてくわしくかこうとおもったら、映画評論家の町山智浩さんが、すでにじぶんのサイトで
すばらしい解説をなさっていて、ぼくがかこうとしていたことをさきにぜんぶいわれてしまっていたので、きょうみのあるかたはこちらを参照してください。「アイ・アム・
ア・レジェンド」 ではなくて、「アイ・アム・レジェンド (レジェンドが大文字ではじまる)」 なのがひとつのヒントになっているのだとおもいます。
でも、あたらしいほうの映画も、そのあたりをあまりきにしなければ、おもしろかったですよ。廃墟になっただれもいない大都会の映像がリアルでよいです。ああいうところでたったひとりで生活するというのに、ちょっとあこがれる。
- 2008/01/08(火) 14:05:50|
- 映画
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