囈語 divagations

ひとりごとは、空気のなかに消えてしまって二度と取りもどせない

英雄は金に泣く

KDDI のひとに AU ってなにかときけば、 access to you の略なんだとこたえるのでしょうが、まあそれがほんとかどうかはともかくとして、ほかにもエーユーっていろいろあるよね。

フランス語をやっているひとに AU ってなんだときけば、「前置詞のアと定冠詞のルが」 と、よくわからないことをいいはじめるでしょう。ついでに、それは 「オ」 とよむんだぞ、なぜかとくいそうに、よけいなじょうほうもあたえてくれます。

天文学をやっているひとにきけば、「それはね、天文単位といって、地球から太陽までの距離が1AU なのさ」 と、なんだかスケールのおおきなはなしをはじめるでしょう。 Astronomical unit の略なのだそうです。

政治をやっているひとには、AU というと 「アフリカ連合」 らしいです。これについてはぼくはよくしらない。きっとアフリカの連合なのだろう。

化学をやっているひとにはもちろん、Au は 「金」 ですね。元素番号79番。「英雄は金に泣く」 なんてぼくのとおいきおくがささやく。これはラテン語の aurum からきている。

ところで、元素記号はだいたいラテン語からきているのがおおくて、銀は Ag ですが、これはラテン語の argentum です。これがフランス語につたわって、アルジャン argent になった。argent には 「おかね」 のいみもある。ややこしい。そういえば、
「あるじゃん」 っておかねもうけの雑誌もありますね。
  1. 2005/10/29(土) 13:20:26|
  2. 雑学

フォーク・エティモロジー

marlboro

フランスがえりの知人から、あちらでかったマルボロの空き箱をもらいました。ごらんの画像がそれですが、すごいですね。Fumer tue (たばこをすうと死にますよ) とかいてある。なんだか 「忌中」 みたいだ。もはや 「Marlboro」 のロゴよりおおきいくらいのいきおいです。

フランスはヨーロッパのなかでもとくにたばこずきの国ですが、それでもやっぱり、喫煙者はかたみがせまくなっているのでしょうね。ぼくはたばこをすう習慣はやめたから、いまのところかんけいない。

と、こんかいおはなししようとしているのはそのことではなくて、「マルボロ」 の語源のことです。大学生のときにともだちが、「これはな、Man Always Remembers Love Because Of Romance Only の略なんだぜ」 ととくいそうにいっていた。ごういんに日本語に訳すならば、「ひとはただ、ロマンスのために、いつまでも愛をわすれない」 とかになるのでしょうか。うわあ。うそくさい。だいいち、これじゃあ英語としてなんだかへんです。どこがどうへん、ってことはないんだけど、あやしい。「ロマンス・オンリイ」 のあたりがとくに。

これはぜったい、あとからだれかがかんがえたこじつけのごろあわせだとおもう。水兵リーベぼくの船みたいなものだ。あるいは 「愛羅武憂」 とか 「夜露死苦」 みたいな。でも、そのともだちは、どうやらほんとにそれがマルボロの語源だとおもいこんでいたみたいです。まあ、いちいち訂正するほどのことでもないのでほうっておきましたが、Marlboro は、たばこの生産地の地名ですよ。

こういうふうに、あることばの語源として、ほんとうとはちがった説ができてしまうことがある。いがいな語源をしっているとなんだかかしこくなったようなきになるものなので、そこでもっともらしい説明をされると、なんとなくなっとくしてしまうひとがおおいのだろう。

日本語でいう 「ニュース」、英語の news ですが、これも、北 North、東 East、西 West、南 South の頭文字をとって NEWS なんだ、という説がありますが、これもへんだよね。たんに、あたらしい new の複数形なんじゃないかとおもうけど、まあ、おもしろいおもいつきではありますが。

そういえば、「デマ」 っていうのは 「くちからでまかせ」 の略だ、とおそわったこともある。なんだかかんじがでていてよいですが、これもただしくは、ドイツ語の Demagogie (うそばなし) の略だというのが定説です。

こういうのを、フォーク・エティモロジー folk etymology というそうです。日本語だと 「民間語源」 です。まことしやかなせつめいをきいてなっとくしてしまうと、あとからわらわれてしまうかもしれないので、語源のはなしをきいたらあとからじぶんでもしらべてみるのがよいです。

携帯電話会社の AU は、Access to You の略だ、というのもきいたことがあるが、ほんとかな。まあ会社のなまえの由来なんてあとからいくらでもくっつけられるので、エーユーのひとがそうだといえばそうなんだろうけどね。ちなみにぼくの電話も AU です。

ところで、風邪はだいぶよくなったみたいです。しんぱいしてくださったみなさま、ありがとうございます。ぼくの感謝がみなさんにとどきますように。アクセス・トゥ・ユー。

追記:ところで、マルボロのロゴのうえにフィリップ・モリスの PM という紋章がありますが、そのしたに、ちいさなちいさな字で VENI-VIDI-VICI とかいてあるのをしっていますか。これはジュリアス・シーザーのことば、「来た、見た、勝った」 といういみのラテン語です。機会があったらごらんください。
  1. 2005/10/27(木) 00:41:27|
  2. 雑学

電話映画

DVDで 「セルラー」 って映画をみました。ほかにみるものがなくててきとうにかりたのでしたが、これがなかなかおもしろくて、しかもあとをひかない、ちょっとしたひまつぶしにはぴったりの映画であります。

その名のとおり、携帯電話をちゅうしんにはなしがころがっていくのですが、そもそも電話って、いつかかってくるかわからない、あいてがだれかわからない、あいてがどこにいるかわからない、というので、むかしからサスペンスやミステリーの映画にはよくつかわれるのですが、それが携帯電話だったらどうなるか、というアイディア集のような映画です。なにしろ携帯電話だと、電話をかけながらまちじゅうはしりまわることができるので、アクションの幅がけたちがいにひろがるのだ。

もう、携帯電話でおもいつくねたをぜんぶやっちゃったかんじで、まあどれも、だれでもかんがえつきそうなアイディアなのではありますが、それでもこれだけつぎからつぎへとやってくれると小気味よいです。はなしはかなり強引で、ちょっとかんがえれば筋のとおらないところはいくつもあるんだけど、それをきにさせないところが脚本と編集のうでのみせどころです。ラストのおちは、あれはむしろ 「お約束」 なのだろうね。

なるほど、なるほど、って、ちょっとまんぞくしてDVDのスタッフ紹介画面をみたのですが、この映画の原案をだしたのは、「フォーン・ブース」 の脚本のラリー・コーエンなのですね。「フォーン・ブース」 はぎゃくに公衆電話をつかった 「巻きこまれ映画」 で、公衆電話だからそこから一歩もうごけないというのがおもしろいアイディアだったのですが、このふたつの映画は対をなしているんだね。この二本、脚本の学校かなにかで 「電話をねたにしたアイディアをおもいつくだけかんがえてこい」 なんて宿題がでたら、その模範解答のような映画でした。ラリー・コーエンって、「刑事コロンボ」 の傑作、「別れのワイン」 の原案をだしたひとでもある。もともとこういう一発アイディア・サスペンスのとくいなひとなのだろう。

ところで、おなじ電話をねたにするのでも、日本だとなぜか 「リング」 とか 「着信アリ」 みたいなオカルト方面になってしまうのがおもしろいとおもいます。見知らぬ他者からの電話、っていうと、あちらでは犯罪をれんそうするのにたいし、日本人はまずおばけとむすびつけてしまうのかもしれないです。

ちなみに、「リング」 の題名って、呪いの連鎖とか井戸のへりの 「輪」 のいみのほかに、「電話が鳴る」 の ring っていういみもあるでしょうね。うまい題名だとおもう。
  1. 2005/10/17(月) 13:15:56|
  2. 映画

秋の花はすきなんだけど

なんだかこのところ、あたまがぼうっとしてやたらにくしゃみがでるようになって、季節のかわりめだから風邪をひいたかとおもってあったかくして寝たりしていたのだが、さいきんになってどうもこれは風邪ではないらしいとおもいはじめた。この症状は、ぼくはよくしっている。これは、花粉症だ。

ぼくはもともと耳鼻咽喉関係があまりじょうぶではなくて、ちいさいときから耳鼻科のおとくいさんだった。ぼくの母方の実家は家畜の獣医をしていて、そこにはウシとかウマにあたえる藁がたくさんあったのだけれど、その積み藁のそばにいくと、もう眼は充血するし鼻水はとまらないしで、すごくつらいおもいをした。ある種の植物のアレルギーなのだ。花粉症のことを英語では hay fever (枯れ草熱) というらしい。あちらにもおなじような症状をもっているひとはけっこういるのだろう。

もちろん春先のスギの花粉にも敏感です。いまでこそ、日本人の2割が花粉症だといわれているけど (そんなにすくないかなあ、実感ではもっとおおいようなきがするが)、ぼくのちいさいころには、花粉アレルギーって、まだそんなにみんながかかえているようなポピュラーななやみではなかったようなきがする。だからまわりのりかいがえられなくて、よけいにせつないおもいをした。あのつらさはかかってみないとわからないです。もううっとうしくってうっとうしくて、ほかのことがなにもてにつかない。いっそのこと鼻の穴に電気ドリルをつっこんでやりたいきもちになる。

でもいままでは、秋はそんなに症状はでなかったのだけれど、ついにことしから秋の花にもはんのうするようになってしまったのかもしれない。近所にブタクサが大量発生でもしたのだろうか。それともぼくの身体があらたな感受性をみにつけてしまったのか。できればそういうよけいな能力を開発しないでほしいとおもう。

われらが東京都知事、石原慎太郎氏も、どうやらことしから花粉症デビューをはたしたらしくて、きゅうに 「国の花粉症対策をなんとかしろ」 といいだしたそうだ。いままでそんなことぜんぜんいってなかったのに、じぶんがかかるととたんになんだかたんらくてきな主張をしはじめるあたりがあのひとらしくてほほえましいが、まあ、きもちはよくわかる。だれかにやつあたりしたくもなるよね。じっさいなんとかなるものならなんとかしてほしいです。

鼻炎のくすりと点鼻薬で、とめどもない鼻水をかろうじてせきとめているじょうたいです。いつ決壊するかわからない。それに鼻水はおさえても、この倦怠感はどうしようもない。「秋の日の、ヴィオロンの、ためいきの、身にしみて」 と、ヴェルレーヌは秋のアンニュイをうたったものだが、「秋の日の、ブタクサの、アレルギーの、眼にしみて」 では詩にもならない。いまのぼくはのうみそが3割がたくらいおるすになっているかもしれないです。どうかあたたかくみまもってください。

ヴェルレーヌ詩集、堀口大學訳、新潮文庫
  1. 2005/10/15(土) 03:30:36|
  2. 雑感

Where am I ?

ぼくはよくみちをきかれる。ほかのひとがどのくらいの頻度なのか、くらべたことはないからわからないけど、でも、どうもちょっとおおいんじゃないかとおもう。平均すれば1ヶ月に2、3回はきかれているようなきがする。きょうもふたりづれのおねえさんにきかれた。

なぜなのかかんがえてみた。まず、生活が変則的なので、へたをすると平日のひるまから街をぶらぶらしていたりする。そして、スーツをきなければいけないしごとにはついていないので、だいたいいつもジーンズに運動靴とかてきとうなかっこうをしている。じぶんではそれなりにやらなければならないことがあっていそいでいるつもりのときでも、はたからみると、ようするに 「暇そう」 なのである。

さらに、ぼくは脇道とかほそい路地をあるくのがすきで、大通りをあるいていてそういうこみちをみつけると、つい、ひょっとはいっていってしまうくせがある。そうしてしらないみちしらないみちへと、のんびりとさんぽするのがすきなのだが、そんな裏路地をふらふらしているのはだいたい 「地元のひと」 なので、ぼくもそうおもわれるらしいのだ。

ずっとまえ、フランスを旅行していたとき、マルセイユの街であるユースホステルにとまっていたのだが、それはまちはずれもまちはずれ、駅からバスで30分くらいかかる郊外にあった。でもぼくは山のぼりをしていたから、ながい距離をあるくのはそれほど苦ではない。はじめての街だし、ひとりたびだから自由なじかんはやまほどある。2時間もあればつくだろうと、駅からてくてくとあるいた。

そうして、とちゅうで本屋をみつけてのぞいてみたり、スーパーで夕食の材料をかったり (フランスの地方のユースホステルにはキッチンがあって自炊できることがおおい)、カフェにはいってきゅうけいしたりして、たのしく宿へかえったのだが、そのみちのりで、2回みちをきかれた。ひとりは旅行中らしいアメリカ人で、もうひとりはフランス人だった。お花屋さんの店先で、この花フランス語でなんていうんだろう、なんて、ぼおっとみていると、「パルドンムシュウ」 なんて、きゅうにはなしかけてくるのだ。そりゃフランスにはアジア系のひともたくさんすんでいるけど、よりによってこんな、そのひこの街にきたばかりの旅行者にみちをきかなくてもいいのに、とおもう。まあ、地元のスーパーの紙袋とワインをもってうろうろしているほうがわるいのかもしれないけど。

でも、ぼくだってみちがわからなくてこまっているひとをみたら、それはたすけてあげたいとおもう。みちくらいどんどんきいてほしいとおもう。ただ、ひとつ悲劇的なことがあって、それはぼくが極度の方向音痴だということだ。空間を把握する能力に、どこか欠陥があるのではないかとおもう。なにしろ、右と左がとっさにわからない。みちをきかれても、ただしくおしえてあげられることはめったにない。うそをおしえてしまって、あとから後悔することがしばしばある。

しらない街など、ほうっておくとじぶんでもわらってしまうくらいあっさりとまいごになる。それはひとつには、やたらにわきみちにまがりたがるくせのせいなのかもしれないが、ずうっとまっすぐあるいていると、ふあんになってくるのだ。そろそろこのへんでまがったほうがいいんじゃないかな、なんて。そうしてどんどんちがったほうこうへそれていってしまう。もともと、目的の場所に最短時間でまよわずたどりつく、というよりは、目的地もなくあるきまわる散歩がすきなんだ。だからだろうか、まわりからみると、あるいているときのぼくはなんだかすごくじしんまんまんにみえるらしくて、どこかにあるいていくときはみんなぼくにまかせてしまう。で、ふときづくとじぶんがどこにいるのかもよくわからないということになる。そしてなぜかぼくがおこられる。なっとくいかない。もう、はじめての場所にいくときには、あらかじめみちにまよう時間をけいさんにいれていえをでるくらいだ。

よくそれで山のぼりができるな、といわれるかもしれないが、それは地図と方位磁石があるからだいじょうぶです。地図があって東西南北がわかれば、あとはなんとかなる。なにをかくそう、ぼくはふだん街をあるくときも、いつでも方位磁石をもちあるいています。ちょっとやばいかな、というときには、おもむろにポケットから磁石をとりだして方角をかくにんします。フランス人も感心していました。
  1. 2005/10/12(水) 22:40:03|
  2. 雑感

秋の夜の夢

みずうみのほとりのふるいおしろに、盲目の少女がすんでいた。ひとびとはいちにちのいろいろがおわるとおしろにたちよって、扉のむこうから、じぶんのさみしさやかなしみやしあわせやのぞみをこっそりと少女にものがたり、少女はそれをきいて、そのものがたりをタペストリに織りこんだ。

少女には色はみえないけれど、それぞれの色の糸に、その色の名のひびきから少女が想像する香りがしみこませてあった。少女は、ものがたるひとびとの声のふるえや、ためいきや、はじけるわらいごえや、床におちる涙の音から想起される香りの糸を縁りあわせて、タペストリにしていくのだった。

そうして、その布の模様は、ときには夏の森の地面にえがかれる木漏れ陽のようでもあり、ときにはゆきどけの軒下のつららからしたたりおちるしずくのようでもあり、またときには嵐のなかで荒れる海の波濤のようでもあった。そしてそれらからは、夏の森や、ゆきどけや、嵐の海の香りが、たしかにかんじられるのであった。壁一面にかけられたそれらの色彩と香りは、意識のおくのほうでふしぎにとけあい、それはまるで、ふとしたときに一瞬だけよみがえるこどものころのきれぎれの記憶のようでもあった。

ある夜、少女のもとにはだれもこなかった。あの皮膚を灼くような夏の陽射しは、いつのまにかどこかへいってしまって、窓からはひんやりとしめった風がながれこんでくるようにもなっていた。少女は窓辺に立った。雨がふりはじめていた。雨はすこしづつ大地を冷やし、かげろうにも似た夏のおもいでを洗いながし、そうして地面がかわくころにはまた冬の風がふきはじめるだろう。湖面を雨が撫でていた。どこかとおくで、蟋蟀たちが歌っていた。風のなかで少女の髪が踊った。少女は孤独だった。

少女はあたらしいタペストリを織りはじめた。そのものがなしい秋の大気は少女にはここちよかった。でも、光のない少女のこころは、そのここちよさのなかにしずんでしまうにはあまりにも無防備すぎた。少女はまえにきいた花火のはなしをおもいだした。夏のおわりに、それは闇のなかでつかのまきらきらとひかって、そうしてきえてしまうんだよ。少女はいま、そのかすかな光をほしいとおもった。深緑色のタペストリに、橙色の火花がいくつか、淡くもえあがった。それは甘くてなつかしい香りがした。


秋の雨の夜に、ふと甘くてなつかしい香りがして、あたりをみまわしたら、くらがりのなかにきんもくせいが咲いていました。そのときにおもいついたおはなしです。
  1. 2005/10/09(日) 19:29:45|
  2. 雑感

「のだめ」 ってなんですか

コンサートがおわったあと、「アンコール」 ってありますね。ぼくはあれが、なんとなくにがてだ。

にがてといってももちろん演奏するほうではなくて、観客としてにがてといういみなのですが、クラシックのコンサートのばあい、演奏がおわったあとにも 「段取り」 というものがあって、プログラムにかいてある曲がぜんぶおわって、会場が拍手につつまれると、まず指揮者のひとが満面のえみでおじぎをして舞台からでてゆく。お客はまだ席をたってはいけない。つれのひとと 「さあなにをたべようか、焼肉?」 なんてげせわなはなしをはじめてもいけない。そこではいっしんふらんに拍手をつづけないといけない。そうすると、「やれやれまいったな」 みたいなかおをして、指揮者のひとがまたでてくる。で、またおじぎである。ひとによっては、ソリストとかコンサートマスターと握手をはじめたりもする。お客はひたすらにこにこと拍手である。

それがなんどかつづく。ひとによっては三回くらいある。こっちもなかなか拍手をやめるタイミングがつかめなくて、なんとなく、惰性みたいに拍手をつづけていると、何回目かに、指揮者のひとが 「しょうがないなあ、ちょっとだけだよ」 みたいなかんじで、おもむろに指揮棒をあげる。オーケストラはまってましたとばかりに楽器をかまえる。アンコールである。まあこのセットがすくなくとも一回、へたをすると三回くらいくりかえされる。アンコール三曲である。お客としては、そのたびに手首がいたくなるくらい拍手、拍手である。こころのどこかでは、そろそろおわりにしてくんねえかなあなんてかんがえていることもある。なんだかアンコールを強要しているみたいで、ものほしそうなかんじがして、ほんとうはいやなのだ。でも演奏には満足しているので、その意思表明として拍手をしないわけにもいかない。じっさい、演奏がきにいらなかった場合は、だんことして拍手をせずにさっさとかえってしまう。

あの、指揮者とか演奏家のひとがでたりはいったり、お客もなんだかまのぬけたかおをしてだらだらと拍手して、えっ、アンコールまであるんですか!? すごいなあ! みたいな、わざとらしい段取りは、もうやめにしたらいいのに、とおもう。

ぼくはどちらかというとポップスよりもクラシックの演奏会にいくことがおおいのだが、ポップスのばあいはさ、だいたいその日に何の曲をやるかって、事前にはわからないことがおおいから、アンコールまでふくめてひとつの演出ということもできるけど、クラシックにはちゃんとプログラムがあるので、アンコールはあくまで 「お客さんがそこまでいうのなら」 というおまけであるはずなのだ。

でも、まあピアノとかバイオリンのソロのばあいは、そのひとのレパートリーのなかからぶっつけ本番でアンコールをすることもあるかもしれないけど、とくにオーケストラのアンコールは、ぜったいそのためになんかいか練習をしているはずなのである。ばあいによっては 「ただいまのアンコール曲は、モーツァルト作曲の……」 なんてアナウンスがながれたりもする。ようするにアンコールまではじめから台本どおりなのだ。なんかそういうのって、町内会の月例行事みたいな、形式のための形式みたいな、 「暗黙の了解」 みたいなかんじがして、きもちがわるい。もしもお客さんがぜんぜん拍手してくれなくてさっさとかえってしまったら、どうするつもりだったのだ。そんななれあいみたいなお芝居をするくらいなら、当日くばるプログラムには 「アンコールを2曲ごよういしております」 とかかいておけばよいのだ。

だいたい、そのてん演奏会というのは特殊である。講演会で反応がよかったからって、「それじゃあ」 なんてもう10分追加でしゃべったりしますか。演劇だって、カーテンコールというのはあるけれどまさかそのあとに即興でべつの芝居をはじめたりはしない。プロレスでいくら観客がエキサイトしているからって、カードにない試合がいきなりはじまったりはしないでしょう。いや、そういうのもときにはあるのかもしれないけど、それはあくまでそのときかぎりのアクシデントなので、それがひとつの段取りになっているなんてことはない。

岩城宏之さんだったかが、「音楽家というのは、お客さんにもとめられれば一晩中でもアンコールをしたいとおもっているのだ」 というようなことをかいていたけれど、まあ岩城さんはそうかもしれないけど、そこまでサービス精神おうせいな音楽家ばかりではないとおもうし、当日の調子とかもあるだろうから、アンコールめんどくせえなあとおもっているひとだっているとおもうのだ。でも、従来の演奏会のシステムでは、これはひとつの形式になってしまっているので、なかなかかえられないのかもしれない。

てはじめに、会場のしくみからかえてみたらどうか。たとえばさ、舞台や会場の照明とか、幕のあげおろしなんかのボタンを、指揮者のところにつけておくとか。それで指揮者が 「きょうはもうおわりにしようよ」 っておもったら、客席にむかってにこやかに手をふりながら、もう片方の手で客席の電気をつけて幕もおろしちゃうのだ。

それか、舞台そのものを巨大なエレベータみたいにして、演奏がおわったら、うえにのっているひとたちごと地下にさがっていってみえなくなってしまう、とか。おおきなオペラ劇場なんかには、もともとそういう装置があるはずだ。これですくなくとも、演奏家が舞台そでからでちゃあひっこんで、そのたびに 「こんどでさいごかな、それともまだもう一曲やるつもりかこいつ」 なんておもいながらひたすら拍手をしつづける、というまぬけな状況からは解放されるはずだ。

追記:「のだめカンタービレ」 という音楽大学の漫画があるのをさいきんしりまして、カンタービレはたぶん 「うたうように」 といういみなのだろうけど、「のだめ」 ってなんだろうとおもっていたら、よんでくださったかたからおたよりをいただきました。「のだめ」 って、主人公のおんなのこのあだななのだそうですね。雪紫さんありがとうございました。

さらに追記:指揮者の岩城宏之さんが2006年6月13日に逝去されました。享年73。ベートーヴェンのシンフォニー9曲を一晩ぶっとおしで指揮したりして、たしかにことばどおりエネルギッシュなひとでした。
  1. 2005/10/07(金) 23:55:34|
  2. 音楽

ディズニーについておもうこと

著作権とかなんとか、権利にうるさいところの代名詞みたいにいわれるのがディズニーである。なにしろ、こんなしろうとがたれながす雑文のなかでつかうのさえ、ちょっとどきっとするくらいだ。いいよね。こんなのきにしないよね、ディズニー。

その逸話はいろいろあって、ほんとかうそかしらないけどゆうめいなのが、日本のどこかの小学校が卒業記念行事としてプールの底にあのねずみのキャラクターをペンキでえがいたところ、著作権料として何千万だか請求されて、せっかくこどもがかいたのをなくなくけずりおとしたとか。あるいはある大事件で逮捕された容疑者が、ぐうぜんあのねずみのキャラクターのついたTシャツをきていたら、ニュースのときにそこがモザイクでかくされたとか。

まあそんなこんなで、ディズニーという企業をあまりこころよくおもっていないひとというのはけっこういるものだ。ぼくはというと、あの企業そのものは、べつにすきでもきらいでもない。そもそも、キャラクター商品というものにあまりきょうみがない。あの遊園地だって、どうしてもそこでなければいやだというりゆうはなくて、たくさんある遊園地のうちのひとつにすぎない。ディズニーの映画も、さいきんはあまりおもしろくないし、みてないしね。

ぼくのちいさいころ、親がディズニー作品のビデオを、それこそ毎週のように借りてきてくれた。「白雪姫」 とか 「ダンボ」 とか 「ピーター・パン」 のようなむかしの傑作から、「美女と野獣」 とか 「リトル・マーメイド」 とか 「アラジン」 のようなひかくてきさいきんの映画まで、いまからかんがえるとものすごい数をみているとおもう。しかもそれをぜんぶダビングしてくれていたので、ぼくたち兄妹は、ひとつのビデオを文字どおり画面がすりきれるまで、なんどもなんどもなんどもみたものであった (家庭内でたのしむぶんには、ダビングしても著作権違反にはならないはずだよね、ディズニー)。

そのなかには長編映画だけではなくて、短編集もかなりたくさんあった。ミッキー・マウスやドナルド・ダックやグーフィーのでてくる、十分くらいのショート・ショートである。みなさん、ミッキーやドナルドはしっているだろうが、その映画をみたことがありますか。けっこうおもしろいんだよ。いまでこそあいつらは浦安で半開きの口をしてへらへらしているが、映画のなかではかなりみんなキャラクターが 「濃い」 のである。

とくにドナルド・ダックは、なんだか神経質ですぐにきれるところが、かつてのぼくっぽくて親近感をもっていた。なにしろ、夜中に、水道の蛇口からぽたぽたたれるしずくの音がきになって、一晩中ねむれなかったりするのである。しまいにはその水滴が爆撃機から落とされる爆弾であるかのような妄想をいだくのである。そうしてかっとなって蛇口をけりとばして足を腫らしてぎゃあぎゃあわめいたりするのである。はらだちまぎれに甥っこにやつあたりしたりする。かなりどうかしているキャラクターである。ふだんは無神論者のくせに、つごうがわるくなるとすぐ神さまにいのるのもわらえる。

ぼくはそのころのおもしろいディズニー作品をしっているので、よけいにいまのディズニーのなりふりかまわんかねもうけを、ちょっとざんねんにおもう。もう、かれらの時代はおわりをつげたのかもしれない。ここでいさぎよくぶたいからおりるのが、一流のエンターテイナーのとるべきたいどかもしれない。

ただ、ディズニーってアメリカにとってはとんでもない外貨獲得の卵だから、へたにつぶせないんだよね。政府にたいしてもおおきな発言力をもっている。1998年に、アメリカ議会はすべての著作物の著作権期限を20年延長した。そうでなければ、ミッキー・マウスの著作権は、あと数年できれるはずであった。ディズニーが議会にそうとうな圧力をかけたのはあきらかだ。

まあ、そういうのもしったうえで、でもぼくは、ディズニーの映画をあいする。「白雪姫」 のこびとたちがうちにかえるときの夕暮れは映画史上いちばんうつくしいシーンだとおもうし、「ファンタジア」 のトッカータとフーガの色と音の洪水もすごい。「ダンボ」 の 「ピンクの象」 は、おさけでなんどもしっぱいしたいまみるとよけいにぶきみだ。「リトル・マーメイド」 の 「キス・ザ・ガール」 の、しあわせとふあんがまじりあうあのかんじ、実写ではぜったいに表現できない。

おさないぼくがディズニーの映画からかんじとったものは、「夢」 とかそういうきもちわるいものではなくて、表現にかけるプロのクリエイターたちの、誇りと意地であった。それは、たしかに、ぼくの人格のかなりふかいところで、栄養になっているとおもいます。おエライさんがいくらかねもうけに汲々としようがかってですが、声優にはらうおかねがなくて自分でミッキーのこえをふきこんだ若き日のウォルト・ディズニーさんの心意気は、たしかにぼく (とふたりの妹) にはつたわっておりますので、ごあんしんください。

追記:あ、でも、キム・ポッシブルはかわいいからすきだ。
  1. 2005/10/04(火) 22:42:48|
  2. 映画

100にまつわるはなし

→ 100のことをラテン語で centum という。「ケントゥム」 とよみます。これがひろまって、イタリア語ではチェント cento、スペイン語ではシエント ciento、フランス語ではサン cent になった。

さいごのは、アメリカとかのおかねの単位の 「セント」 とつづりがおなじだが、もちろんそれはあたりまえのはなしで、おなじ語源だからである。cent のつくことばは 100とか 100分の1とかをあらわすことがおおい。ほかにもたくさんある。century=100年。centimetre=100分の1メートル。percent=100分率。ちなみに、いまはユーロになってしまったけれど、かつてはフランスのおかねの単位はフランで、そのしたはサンチーム centime であった。100分の1フランだ。

日本ではおなじように、円のしたに銭 (セン) があるが、これもひょっとしたら cent にかけているのではないか、とおもってちょっとしらべたけど、そのような説はみつからなかった。円とか銭とかいう単位がつくられたのは文明開化の明治時代だし、1円は100銭だし、かんがえたひとはいしきしたとおもうんだけどな。ごぞんじのかたがいらっしゃいましたらおしえてください。

「百年の孤独」 という焼酎があって、これはもんくなしにうまいおさけだ。ずっとまえ、まだおさけの味もよくわからないころにおよばれしたお宅でこれをごちそうになり、そこではじめてのんだ。「なかなかうまいですねえこれ」 なんていってがぶがぶとのんでしまったが、あとからきいたらかるく一本一万円はする高級品なのだった。しまったことをした。もっとのんでおけばよかった。

ちなみに、「百年の孤独」 というなまえをつけたのは、日本の皇太子さんだそうです。もちろん、ガルシア・マルケスの小説 「百年の孤独」 からとっている。殿下にもおさみしくあらせられることがおありだったのであろうか。

→ いまでもやっているのかどうかしらないが、夕刊フジというスポーツ新聞に、活躍中の作家に100回エッセイを連載させるという企画があった (イラストは山藤章二)。執筆者は山口瞳、吉行淳之介、井上ひさし、筒井康隆、景山民夫など、いずれもエッセイの名手だが、なにしろ新聞なので、毎日まいにち、100回連載をつづけなければならないのである。

その困難はそうぞうをぜっする。作家というのはやはりたいへんな才能なのだなあとおもう。なにしろ、あの天才筒井康隆が、とちゅうで 「もうかくことがない、ゆるしてくれ」 とねをあげるくらいなのである (「狂気の沙汰も金次第」)。まあ、筒井のばあい、あのひとのことだから、それもすべて計算ずくの演技という可能性もあるが。

→ というわけで、投稿100回めです。ご愛読かんしゃします。こんごともよろしく。
  1. 2005/10/03(月) 20:47:40|
  2. 雑学

たばこをやめました

さりげなく前回のつづきなのですが、こんかい、食事を制限するのとぜんごして、たばこもやめました。やっとそろそろ一ヶ月になるかというていどで、禁煙というもおこがましいものですが、でも、まえに一年半たばこをやめたときもそうだったけど、一ヶ月もすわずにすめば、ひとまずとうぶんはすいたいという気もおきなくなるものだ。身体依存がきえるのだとおもう。じっさい、しごとばにはかいおきのたばこがまだ数箱のこっているのだが、とくにそれをすおうとはおもわない。愛煙家のひとがくるとおみやげにあげたりしている。外国のたばこなのでめずらしがられる。もうすぐなくなる。

よく 「ダイエットと禁煙をどうじにするな」 といわれます。ストレスがたまってながつづきしないからというのだろうが、ぼくのばあいはこれはどちらかかたほうだけやるというわけにはいかなくて、むしろどうじにやったほうがせいこうする。たばことたべすぎはどちらもからだにはよくないとわかっているので、どちらかかたほうをやめたところでもういっぽうをつづけていると、「毒を喰らわば皿まで」 というか、なしくずしにもうかたほうも再開してしまいそうなきがするんだ。試験のまえについ漫画をよんでしまって、それからちょっとでもべんきょうすればよいのにもうどうせだからってなにもしないでテレビみてねてしまう、という心理とにている。

それにまあ、たばこというのはなにしろ依存性薬物なので、やめようとおもってハイやめましたというものではなくて、禁断症状がかならずでてくる。やったことあるひとはわかるとおもうけど、はじめの数日間はほとんど阿呆である。ダイエットもしかりで、はじめはおなかはすくしひさしぶりの運動で筋肉痛になるしで、それは一週間もすればなれるのだけれど、とにかく数日間はちょっとつかいものにならない。いくらむりをしないとはいっても、やはりがまんはひつようなのだ。

で、どうせがまんをするのなら、いちいちわけてやるよりも、いちどにまとめてやってしまったほうがよい、というかんがえかただ。どちらかというと、ぼくはなにごとにつけてもめんどうなことはさきにまとめてすませてしまうという性格です。これは意志がつよいとか勤勉だとかいうのではなくて、むしろその正反対だとおもう。ねばりづよく努力を継続する、ということがだいのにがてで、きゅうきょくのめんどうくさがりなのだ。やらずにすませられるものならきょくりょくにげまわるけれど、そうもいかないものはかんねんしてさっさとすませたいとおもう。こどものころの給食でも、ぼくは生野菜ぜんぱんがにがてなのだが、まいにちのこすわけにもいかないので、いちばんはじめに牛乳といっしょにのみこんでいた。そうしてそれはじぶんのなかで 「なかったこと」 にするのだ。そうするとあとがたのしい。

ダイエットにしても禁煙にしても、実現しようとおもえばまずかならずなしとげられるしゅるいの行為だし、それにいたるまでの時間もおよそ予測はつくので、みとおしもたてやすい。じんせいにおいて、そういうことってなかなかないでしょう。たとえば、助走をつけずに宙返りをうつ、というのは、ぼくはなんどかためしたけれど、これはもう何時間れんしゅうしたらできるようになるというものではなくて、できないものはできないとおもう。できるひとはなんのくもなくできてしまうのでふしぎなのだが。

ぼくの経験からすると、ダイエットも禁煙も、壁にはりがみかなにかして 「来週からはじめる!」 とかいうのはあまりながつづきしない。それよりも、満腹までたべちらかすことやきもちわるくなってまでたばこをすうことに、なんとなく 「飽きちゃったなあ」 と、ふとおもったときがチャンスだ。そのタイミングをつかまえれば、おおかたせいこうしたようなものだとおもう。

とかえらそうにいうけれど、減量にしても禁煙にしても、かんがえてみればそんなにとくいげにいうことではないよな。暴走族の兄ちゃんが改心して、オレひとにめいわくをかけるのはやめるぜ、とかいうのとおなじで、馬鹿食いやたばこなんてはじめからしなければべつにあとからくろうするひつようもないわけで、ようやくスタートラインにもどったというだけのことなのだから。
  1. 2005/10/02(日) 15:07:18|
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